地方でセクシャルマイノリティということ
ここ数年、日本でのセクシャルマイノリティに対する理解がとても改善しているよね。理解まで至らなくても、社会の関心は確実に上がってきていると思う。
けれど、情報の広がり方って、やっぱり都市部と地方だと隔たりがあるんだなぁ、と感じる今日この頃。
様々な問題に接する機会が多い都市部と、そうじゃない地方
あっしは出身が東京だし、実家も東京にあるんだけど、今住んでいるのはとある地方です。
日本の中で、ここまで性質の異なる2つの地域に暮らしてみて日々思うのは、世間で話題になっている様々な問題に接する機会が、都市部に比べて地方ではかなり少なくなるということ。
例えば、外国人の問題。
確かに地方にも技能実習生とかで外国人の数は多くなってきているけど、日々の生活の中で外国人を見かける機会は、都市部に比べて圧倒的に少ない。あっしの身の回りには比較的外国人が多くなるんだけど、彼らが口をそろえて言うのが、「道を歩いていてじろじろ見られる」ということ。それだけ外国人っていうのが珍しい存在だからねーっていっても、人からじろじろ見られるというのは決して気持ちのいいことではないはず。
日本人が白人や黒人などの、いわゆるいかにも「外人」と判断する外見の人をついつい見てしまうのはありがちな話。それだけ外見が異なるのだから、差別的な感情はなくても、差異として注目してしまうのは仕方のないことだと思う。でも、僕が認識している限り、地方での人々の外国人に対する視線は、かなりしつこいというか、ちらっと見るだけならまだしも、かなり見つめるようにする人も多いので、もうちょっとどうにかしたらいいと思う(*´ω`)
あっしは、そもそも「外国人」という言葉を使うのも疑問に感じるんだけど、(日本語で文章を書くときは、便利だからつい使ってしまうけど)そういう問題意識に到達するかなり以前のレベルで、まず外国人に接する機会が圧倒的に少ないというのが、地方の現状だと思う。
LGBTQ+と接する機会
問題に接する機会が少ないのは、外国人との接点だけじゃなくて、かなりいろんな部分でも同じことが言えると思う。
他にも、食事の問題(ヴィーガンやハラルなど)だったり、エステティックな問題だったり、自然環境の問題だったりと、かなり多岐にわたってる。
もちろん、反対に都市部で接する機会がないけれど、地方で問題に接する場面っていうのもあると思う。例えば、日本の今の害獣問題なんかは、田舎に行けば行くほど深刻になる。
大雑把に言って、海外からの影響で変化している問題というトピックが、地方はかなり遅れをとっているんだよね。
その一つがLGBTQ+の問題。
あっしはヨーロッパでの生活が長くて、自分のセクシュアリティも海外生活の中で仕上げられた感じだから、日本に来て、しかも地方に住んでいると驚くことがたくさんある。日常会話の中で、LGBTQ+を連想させる言葉が人を罵るために使われていたりと、前近代文明社会に迷い込んだのかと錯覚することがたまにあったり。
それは、ほかでもなく、LGBTQ+というものに接する機会が少ない現状があるから、普通にのうのうと生活している大多数の人は無理解のままでいるのでしょう。無理解というと語弊があると思うけど、つまり、理解する機会すらないということ。
対してヨーロッパにいるときは、LGBTQ+の話題が人気であることも後押しして、さらにヨーロッパ全体の情報網がお互いにつながっているため、どこにいてもLGBTQ+のニュースが入ってきて、地方であってもそういった情報に接する機会がたくさんあるから、同じ地方でも日本とはだいぶ性質が違ってくる。
なので、地方でセクシャルマイノリティというのは、まずスタートの土壌整備が良い環境でない場所で生活するということになるから、LOQ的にはかなり不利なことだと思う。
ただ、無理解(素人市内だけでなく、知る機会が与えられていないというのも含めて)の土壌であるからこそ、新しい気風が入り込みやすい可能性もゼロではないはず。それに、今の情報の発達は、今までと全く違う速さで進んでいるから、都市部と地方のギャップも縮まるかもしれない。
そうしたら、地方でのLGBTQ+という分野は、まだ手が加えられていない未開のジャングルのようなもので、魅力的な発見があったり、開発ができるものなのかも。
そんなことを考えているアラサーおゲイでした💋